貞観政要 |
唐の二代目皇帝・太宗が部下たちと政治についてやりとりした内容をまとめた原著を、歴史学者が注もまじえて全文訳出したもの。原著は帝王学の書として長く読み継がれ、東洋の優れたリーダーシップ論として知られている。
会社がしつこく自己啓発しろと言ってくるけれどなんでプライベートな時間まで使ってそんなことせにゃならんのかと毎年適当にやりすごしていたら、NHKのEテレ「100分de名著」でこの本を紹介していて面白そうだったので今期はこれを読むことにした。題は貞観年鑑(貞観は元号)での「政治の要諦」という意味らしい。
本書を選ぶにあたり、原著のおいしいところだけつまんであとは作者の実体験を自慢げに語っているしょうもない「実用書」のたぐいは絶対に避けるとして、どうせ読むなら抄訳(抜粋して訳す)ではなく全訳がいいと思ってそうした。まあまあ良かった。
重い紙の本を持ち歩きたくなかったので電子書籍にしたのだけど、小さいプラットフォームは存続が怪しいのでAmazonとGoogle Playに絞り、Google Playはまえがきまでしか試し読みできなかったのでAmazonにした。Kindleの実機でも読めるという点も強い。ちなみにAppleのiBooksのほうは単純に忘れていた。
中国の歴代王朝の中で一番栄えたのはどこかというと、文化的には春秋戦国時代かもしれないけれど世界史的に言えばやはり唐だと言われている。なにせ騎馬民族は軒並み服従させたし中央アジアにも進出したから。そんな強い唐の元となった二代目皇帝の太宗(李世民)は、本書で書かれてあるように部下の諫言(いさめる言葉)をよく聞き、贅沢を我慢し、身内をひいきしないようにし、人民をあまり苦労させないよう気を配った。
本書はそんな太宗と部下たちとのやりとりをテーマごとに収めている。内容を一言で言うと「耳の痛いことでもちゃんと聞こう」だと思う。部下たちの中でも特に魏徴(ぎちょう)の言葉が多い。当時の中国には諫議大夫という諫言を行う専門の役目があった。内容は古典を引いたものが多く、尭や舜といった伝説的な皇帝、孔子や老子といった学者、その他さまざまな名君や識者のエピソードに加えて、逆に暗君の失敗を反面教師に引くことも多い。
率直に言うと、その教訓はいまでは半分も活かせないと思う。なんというか内容がフワッとしていて論理に乏しい。過去にこんなことがありましたよ、いいことはマネしましょうね、みたいな。もちろん古今東西人間の普遍的な原理についてはいまでもよく当てはまるのだけど、特に法理はあいまいだし、どうやって人や組織を動かしていくのかといった点はざっくりとしか触れられていない。でも教養のある人による故事を引いた説得力のある諫言の数々は実にスマートで見事だと思う。
リーダーなら全員読んどけ的なオビが本書以外の抄訳本によくつけられているけれど、本当に皇帝クラス(?)のトップリーダーぐらいにならないとあまり役に立たないと思う。せいぜい部門の長つまり最低でも部長クラスにならないと意味がなさそう。中間管理職だったら自分の配下のことは大体見まわせるだろうし。
優れた音楽家や技術者がいても高い位をさずけず褒美だけあげればいいと言っている。中華圏では文官が一番偉く、この時代もそのような価値観が強いみたいだ。一方で現代の中国では大学は理系の方が多く、偉い政治家にも理系出身者が多いみたいなので変わったんだろうな。日本は古い価値観がいまだに根強いけれど、共通テストに情報が加わる予定だそうなので変わっていくんだろうか。不景気すぎて医学部が大人気なのが笑える。
誣告(告げ口)を簡単に信じるなと言っている。ちゃんと調査して裏付けをとれとかでなく、ただ功臣をむやみに疑うなみたいな感じで言っている。
自分が得意だと思っていた弓矢も専門家からみたら大した事ないと気づいたことや、敵国の美女をなんとなく連れ帰ってきたことをとがめられたり、いやな顔をせずに家臣からの言葉を聞くようにしないと家臣がしり込みすると言われたりする。
本書の一番の特徴は最初に書いたように全訳されていることと、漢文学者ではなくて歴史学者が訳したこと。だからなのか知らないけれど、訳文に「ブレーン」みたいな横文字を使っていることもあって最初びっくりした。おそらく当時の用語を現代の日本人にとってもっとも意味的に近い言葉に置き換えたらこうなったのだと思う。これはすごいことだと思う。そのうえで原文もすべて載せている。よっぽどの自信がないとできないと思う。
中国語にはいわゆる故事成語があって、故事を知らないと意味が分からない言葉がある。たとえば「五十歩百歩」なんて教科書に載っているほど有名な例で、戦場から五十歩逃げた人間が百歩逃げた人間を笑った話から来ている。現代で中国語を勉強する人はたしか五百個ぐらいはこういうのを覚えないといけなくて、知り合いがそういう学習者用の故事成語をまとめた本を持っていたのを思い出した。原著にも当然そういう言葉がふんだんに使われているのだけど、本文でちゃんと分かりやすく翻訳してくれた上で、原典まで紹介して解説してくれている。ただし訳者は歴史学者なのでタネ本の存在をあとがきで明かしており、そのうえでちゃんと自身で原典にあたり裏付けを取っているという。その時代ではよく知られていても現代ではあまりなじみのなくなった故事も多そうなので原著を読むのは大変だと思う。
面白いことに中国で写し継がれてきた写本よりも日本に渡ってきたもののほうが正確みたいだった。構成が多少変わっているらしい。それを訳者は取捨選択し過程を明らかにして解説してみせている。ほかにもここは字を写し間違えている可能性が高いだとか、年代のつじつまが合わないのでこうしただとか書いている。一般読者向けながら講談社<学術>文庫なだけあるなあと思った。
まえがきで簡単に歴史的背景や当時の役所の組織構成や身分制度みたいなことを解説してくれている。とてもわかりやすかった。太宗は二代目だけど玄武門の変という跡目争いに勝利して兄弟を殺して玉座についており、また自身の子供たちにも意図せず跡目争いをさせてしまい、これらの悔恨から教訓を導いていて実感が持てる。
唐は外来王朝であり、つまり多数派の漢民族からすると異民族である皇族が支配していたけれど、文化的に中華に同化していたことがとてもよくわかった。むやみに領土や植民地を増やしてもしょうがないみたいなことも言っていて意外だった。
部下の言うことをよく聞いた太宗だけど、最後は結局いうことを聞かずに大好きな狩りに行ったり、高句麗をこらしめるために大軍を出してしまったりする。あとがきによると抄訳では大体これらを都合よく省いてしまうらしい。原著はこういう太宗の失敗までちゃんと書いてあるのがいいところだと思うので、この点でも全訳している本書は良いと思う。
値段がちょっと高くて、それだけの労力の掛かった作品だと思うけれど、リーダーシップ論にしか興味がない人にとっては冗長で退屈だと思う。大多数の人にとっては抄訳をつまみ食いしたほうがいいのかもしれない。唐の勃興期の歴史に興味があり、皇帝と臣下たちとのやりとりを読んで楽しめる人にはいいかもしれないけれど、それならそれでそのまえに読んだほうがいいものがいっぱいありそうなのであえてこの本を選ぶ理由には乏しいと思う。
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