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大本営参謀の情報戦記
太平洋戦争後期に大本営の情報参謀として活躍した堀栄三の自伝。旧日本軍がいかに情報を軽視したのかを、現場の目と戦後アメリカ軍の資料から述べるほか、大戦末期に山下軍団のもとで働いていた時の話、戦後退官したあと最終期に自衛隊に再就職したがすぐやめたこと、ドイツ駐在武官として一期働いたときの話などが語られる。

作者の堀栄三の父親は、二・二六事件当時の第一師団長で、日本の航空団の父とも呼べる大人物だったらしい。

とにかく読み物としてかなり面白い。戦争の空気が伝わってくる。こういう本を私は渇望していた。情報参謀の目から見ているので、作戦や戦場についての視点が高くて分かりやすい。ドンパチやる話はあまり出てこない。当時の日本の戦況が伝わってくる。ちょっと残念なのは、作者が情報参謀になった頃にトラック島やガダルカナルが陥ちて既に日本が敗勢だったことだ。

まず日本の参謀教育について書いている。参謀になるためには、エリートとして士官学校や陸軍大学校に受からなければならない。その試験の話がまず印象に残った。面接のようなものが三日間あったというのだが、面接官たちは人を食ったような設問と解答を繰り返したらしい。答えが二つ以上あるナゾナゾのような意地悪な問題だったそうだ。作者はそれに素直にひっかかり答えていくしかなかったので、帰ってから父親に自分はダメだと報告したところ、逆に大丈夫だろうと言われるのだ。その理由は、教えがいのある生徒を選ぶための試験なのだから、ということだった。それを聞いて私はちょっと感動した。なるほど、ただ優秀な人間を選ぶのではなくて、素直に吸収してくれる人間を選んでいたのかと。制度上、特定の学校を卒業しなければ大幹部にはなれないので、この選抜方式には大きな問題があるのだけれど、もしそうでなかったらこんなに合理的な選抜方式はないと思う。たとえば、もともと優秀な人で、自分で何を学べば良いのか分かっていて、教官の教えることに時々懐疑的になるような人は、東大に入る必要はないのだ。そういう人より、あまり自分を確立させていないが教えられたことを全部吸収してしまうような人こそ、教育の効率という意味では高いレベルの教育を受けさせるべきなのだ。まあいかに合理的だとしても、軌道修正がきかない硬直した人材を再生産してしまいそうだという点ではやはり大いに問題がある。

次に作者は情報教育が足りなかったと言っている。陸軍大学校ではカリキュラムとして情報教育があるにはあったが、講義を聞くだけのもので、実践的なものではなかったという。作戦偏重の傾向があり、優秀な人材から作戦課にまわされており、大本営の中でも作戦課は特別な存在だったそうだ。戦後日本の軍隊は大本営が暴走したという評価があるが、大本営も一枚岩ではなかったのだと言っている。

情報を扱う部の下には、各国を扱う各課がいくつもあったのだそうだが、たびたび編成替えがあったそうだ。気弱な発言をしたことで全員の前で罵倒され別の課に回されたりと、三つぐらいの課を渡り歩き、やっとアメリカの課に落ち着いた。上司が机上ではなく現地主義の考えをもっていたことから、課員はそれぞれの戦場に視察に派遣されたのだそうだ。大本営というと軍の幹部は東京から指図ばかりしていたという印象があったが、実際はこのような視察があったり、二三年ぐらいの周期で方面軍と大本営を往復するのが通例であったらしい。

作者の父親が日本の航空戦力の父であったことから、その部下だった寺西将軍から視察の途上歓待され様々な教えを授けられたときのことを描いている。古来より高い場所を占領した側が勝つということ、現代ではそれが航空戦力になったこと、などなど現代の戦争のやりかたは変わってしまったのに日本がついていっていないことを嘆いていた。

太平洋は攻める側に有利で守るのが難しい。飛び石のように飛行場から飛行場へと航空戦力を進軍させていき、制空権を広げて攻め取っていくアメリカのやり方を分析している。当時戦艦は時代遅れになりつつあったが、陸上への艦砲射撃では依然として強力な兵器であり、戦艦一隻が4個師団分ぐらいの戦力にあたると言っている。ちょっとこれには驚いた。戦艦の乗員は確か千人に満たないはずだが、それが歩兵一万人以上の師団四つと同じなのだろうか。それはいいとして、水際でアメリカ軍の上陸を食い止めようとした日本軍は散々にやられたらしい。

そのような状況を冷静に分析し、作者らはアメリカ軍と戦う軍関係者のために一冊の冊子を作ったのだそうだ。この冊子を読み熱心に講義を聴講していた司令官の部隊がアメリカ軍を苦しめたと語っている。その他、アメリカ軍の動きを断片的な情報から予測し確度よく当てることから、作者は皆からマッカーサー参謀と呼ばれるに至ったのだそうだ。

作者の有名な功績として、台湾沖航空戦の過大戦果疑惑について大本営に電報で報告したというものがある。この電報を大本営作戦参謀でのちの伊藤忠商事会長の瀬島竜三が握り潰したとかそうでないとか言われているが、電報を打つにいたった経緯や当時の状況が語られている。

その後、過大戦果や航空戦の実態についての調査をしているうちに、あの山下将軍と出会い、のちに彼に乞われて彼の軍団の参謀になる。山下奉文と言えば、マレーの虎と恐れられた日本の名将である。自転車を使った日本版電撃作戦を行ったとされるが私はよく知らない。電撃作戦とはドイツが生み出した、足の速くて強力な部隊(戦車)で進撃して、足の遅い歩兵がそれを追いかけつつ占領していく作戦のことだ。

山下将軍の軍団は、大本営作戦課の指示で、当初はルソン島まで引き込んで戦うはずだった。しかし過大戦果を信じた大本営が、レイテ島という狭い島で迎え撃つという相手を見誤った作戦を押し付けてきたため、ずるずると消耗して最終的にルソン島で満足な戦いが出来なかったという話が語られる。

師団を海上輸送するには輸送船団を組むのだが、輸送の最中にアメリカ軍にやられると、ずぶ濡れになって武器もなく半数ほどの丸腰の部隊になったのだそうだ。情報を疎んだ結果、最初の師団がたまたま運良く上陸できただけなのに、次の部隊を送り出そうとしてやられた。軍幹部を乗せた飛行機や偵察機が待ち伏せにあってあっけなく撃墜される。厳重なアメリカ軍の警戒網をタイムテーブルで分析し、うまいことスキをみつけて人を運んだエピソードも語られる。

日本の諜報活動もある程度の成功を収めたケースもあったそうだ。一部暗号を解読できたこともあり、暗号が解けなくてもコールサインや発信のタイミングなどから多くのことが読み取れたのだそうだ。たとえば無線封鎖されると何の情報も得られないかというとそうではなく、逆に無線封鎖自体が攻撃開始前という情報を持っている。

原爆投下についても途中までは追いかけられていたのだそうだ。コールサインから部隊の機数が分かったのだそうだが、中途半端に少ない数の部隊が、中途半端なタイミングで生まれ、なぜかワシントンに通信を送っていたことも把握していた。それとは別に米本土で何かの実験が行われたこともつかんでいた。それらの情報を関連付けて吟味していたら、原爆投下の実働部隊が来ていたことが分かったかもしれず、大変悔やまれるというようなことを書いている。

開戦後まもなく米本土の日系人が強制収容所に送られたという有名な話がある。人道的にこれは誤りだったと今のアメリカ人は思っているが、実際のところこの行為は日本のスパイ網を一網打尽にするための確信犯的な行為だったと指摘している。事実日本は諜報網を作っていたらしいのだが、これで一気にダメになったのだそうだ。

作者は情報参謀なので、スパイ活動の実働部隊ではなかったのだが、大戦当時の各国のスパイ戦についてのエピソードも断片的にいくつか語っている。アメリカの司令部にもぐりこんで秘密書類を撮影した可能性があるとか、敵の女スパイを二重スパイに仕立て上げてスパイ行為をさせていたとか、まるで映画か妄想かというような信じがたいことまで語られている。が、記述の量としては少ないのであまり期待しないように。

敗戦後は作者は野に下って農業を始めたらしい。自衛隊が創設されたときに誘いがきたが、当初は断っていたのだそうだ。責任のある立場にあった人間が、敗戦後にまた責任ある地位につくのは恥だと考えていたらしい。しかし先輩に誘われて結局最終組で入隊する。戦中よりさらに規模の小さい日本の情報部門の長となる。しかし、シビリアンコントロールにより政治家の顔色をうかがって自分の地位に固執する統幕議長など制服組幹部たちに愛想をつかして除隊する。

その後、一期だけドイツ駐留武官として任についたときの話が最終章で語られる。そのときの話がまた面白い。武官とはその国の軍隊の代表なのだそうだ。相手国首脳と直接交渉する権限があるらしい。まとまりかけていたライセンス生産の件で突如ドイツの陸軍次官が手のひらを返して電話で破談を伝えてきたときに断固抗議して話をもとにもどしたこと、日本の戦車メーカー(三菱重工か?)の技術者から頼まれてドイツの戦車工場視察時に部品の大きさを体の部位を利用して測って伝えたり、キューバ危機のときにコネクションを使って独自の情報をまとめて本国に送ったりと活躍する。インドネシアの武官が日本語達者で作者を頼ってきたり、トルコの武官が乃木将軍のファンだと言って親交を持ったり出し抜いたり、なじみの店のマダムに川を行き来する船の喫水線を調べてもらうことでアメリカがソビエトに対してどれだけ本気かを分析したりと、魅力的なエピソードがサラリといくつも語られる。

ちょっとしたトリビアだが、軍隊や警察官などがする手を斜めに上げる敬礼は、騎士が君主との謁見時に甲冑のバイザーをあげるときの動作が元になったのだそうだ。という話をそのマダムから聞いたらしい。ガセディアかもしれないので注意。

ソビエトがキューバにミサイル基地を建設中であることをアメリカが掴んだときに、U-2 という超高空偵察機には日本のニコンのレンズが使われていたらしい。日本は自分の作っている部品が民生用だとばかり思い、それが軍事利用されるとは考えもしないほど、軍事に無感覚になってしまったことを嘆いている。

以上が本書のおおざっぱな概要だ。ここらで批評もしてみたい。

一人称が私や俺ではなく堀となっている。自分を客観的に見つめたかったからそうしたらしい。なるほど。あとがきに初めてそう書いてあったので、最初これは本当に第三者がまとめたのかと思った。

作者は大本営の中の大本営つまり作戦課の参謀たちこそ選ばれた人々だと言っている。こういう指摘は興味深いのだが、作者自身も十分エリートではないか。まるで一介の情報参謀が回想しているかのような書き方をしているが、当時若手であったとはいえ十分中心的な働きをしているし、なにより血統が輝きすぎている。

十分自省的な書き方をしているが、だからこそ作者によって語られなかったことがなにかしらあるのではないかと勘ぐらなければならない。果たしてどこだろう。それには別の記録を読まなければならない。それでもさすが情報の専門家だけあって、不用意な断定はなさそうである。とまあそれ以前に、作者は重要な動きをするにはしたが、大きな責任を持つことはなかった。作戦の失敗で何万単位も犬死にさせたわけでもない。原爆情報も米軍情報も、突き止めて当然だったというほどの過失があったわけでもない。既に手遅れだったところが大きい。つまりもともと作者の責任は軽かった。軽かったからこそ書けたという面もあるだろう。

作者は終戦後まもなく自分の体験をまとめて原稿にして出版しようとした。しかし父親にとがめられて一度とりやめたらしい。負け戦で金をもらうなと言われたという。もし責任を少なからず感じていたのであれば、金に関わらず情報公開すべきだったと思う。ここにこうしてこの本があるのは、とある雑誌(文芸春秋?)の座談会かなにかで瀬島竜三が作者の打った電報を握りつぶしたことを告白したことに端を発しているのだそうだ。それを作家の保阪正康が聞きつけ、作者に再三執筆を勧めたらしい。おそらくその頃は既に父親も亡くなっていたのだろう。情報の専門家にしては決断が遅すぎる。

作者が本当に使命感を持っていたとのであれば、自らがジャーナリストとなって、当時の上官や幹部たちの証言を集めることも出来たと思う。また、これからの日本の国家戦略に情報(諜報)を大きく据えるために、なんらかの動きができるほどの立場にいたはずなのである。しかし作者は地方の大学で細々とドイツ語教師をやる道を選んだ。もう亡くなっている。

とても面白い本だ。読み物としてぜひほかの人に勧めたい良い本である。割とスムーズに読めた。文章は平均以上の出来で、読みにくいところはほぼ無かった。航空機が戦争の主役になった理由が明確に分かるのもいい。ぜひ読んでみて欲しい。
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